もしかして、シンゴジラは震災の比喩ではないのかもしれない?
ついにシンゴジラ観てきた
上海浦东机场→茨城空港→恵比寿にて元同僚結婚式→TOHOシネマズ新宿IMAX、という史上かつてない距離を移動しての映画鑑賞。
超絶面白かった
公開から1ヶ月以上開けてしまっていて、正直ネタバレは少なくない量が耳に入っていたし各方面からの批評もチラチラ読んでた。
①疑問
圧倒的膨大なディテールの積み重ね。政治的手続き、軍事的展開のリアリティなどが批評の主なテーマになってるケースが多いし、それぞれ多少ほんとの現実との齟齬はあれど、概ね大好評ってのがシンゴジラ世論かな。
しかしね、しかしだよ。
それらよくあるシンゴジラ批評はどれも、作品のディテール、枝葉末節に対しての批評であって、怪獣映画シンゴジラそのものの批評ではないものが大多数な印象を受けてる。
石破茂元防衛大臣のインタビュー記事は秀逸で、作品自体には好感を持ちながらも、タバ作戦に運用した10式戦車はどこに配備されたものをどうやって首都圏まで運んだのか?というガチすぎるマジレスを繰り出して日本の防衛システムの現状を述べている。
意外と批判的な文章の方が面白くて、よくあるのは結局は国家権力のいわゆる偉い人たちに任しておけば安心する烏合の衆・日本市民、世論への失望とか。昨今の日本人はやるときゃやると期待するナショナリズム(右傾化ともいう)への批判記事が多い印象。
確かに劇中でも夜中に騒ぐ一方的な市民デモを鬱陶しく描いた一コマもあったわけで、政権に批判的な層はゴジラ対応をうまくやってしまう政府像への反感をあらわにしているというかんじ。
とはいえこれらはやっぱりシンゴジラのディテールへの批判に過ぎないと私は考えるわけです。リアリティがすごいシーンへの反応に過ぎない。
褒めてる側も同じくで、批判されているリアリティこそがが良いのだ。蒲田くんが可愛いのだ。尾頭さんがいいキャラだ、などの断片的な部分への評価が大半だったりする。
ではシンゴジラの本質の面白さはどこにあるのか?となると自分自身即答できなかったりするのが難しいところなんだよな。正直二回目を映画館で観て数日調べて考えるまでその辺を飲み込めてなかった。
やっぱ怪獣映画なんだし、都市の大破壊や非日常の恐怖がメイン。ゴジラ熱戦大暴れシーンはあまりの恐怖に映画館でホロッと泣いてしまった。
最初の遡上シーンでの舟が川を逆流するシーンなどはもろに東日本大震災だし、放射性物質汚染もそう。初代ゴジラが太平洋戦争への追憶なら、シンゴジラは東日本大震災のオマージュ…
しかしまてよ?作中でセリフとして「先の大戦」という言葉は出たが「先の震災」という言葉は出なかった。そもそもこのシンゴジラの世界に東日本大震災は存在したのだろうか?東日本大震災は我々観客が勝手にオーバーラップさせているだけで製作者の意図はそこにあったのだろうか?エヴァTV版の時と同じく深読み解釈、思わせぶり演出な庵野秀明にまたしてもノせられているのでは…?
東日本大震災をドキュメンタリーに描きたいなら震災そのものを映画にする手もあったはず。そこにゴジラをなぜ一回挟んで比喩的に物語る必要があったのか?
②仮説
もしかして、シンゴジラは震災の比喩ではないのかもしれない?
そもそも何かテーマ性社会性を帯びた映画を作ろうとしたわけではなく、単に怪獣オタクである庵野秀明がオタク的怪獣映画を撮っただけなのでは?ゴジラである事自体に意味がある映画だとしたらいろいろ納得できる構造が見えてくるのでは?
戦災の比喩である初代ゴジラの、さらにオマージュ。比喩の比喩。メタのメタ。初代ゴジラみたいなかんじの映画。画面に見える部分は 情報過多だけど一向に本質的な意図が見えない。
③結論?
ディテールの映画的重武装、なのに本質は空虚。これって伝統的な怪獣着ぐるみみたいだ。怪獣解剖図まで空想させるほど内部への想像力を掻き立てるのに、その実は空っぽ。
そりゃ見た人は肯定否定問わず表層の話に終始するわけだよ。内部は無いんだから。
ハリウッド版ゴジラみたいに生物的なリアルではなく、リアルな着ぐるみを描くCGって手法も納得。何しろゴジラって、嘘の話ですから。そんなのは厄災の比喩であってほんとは怪獣なんてこの世に居ないんです。
シンゴジラはかつてのゴジラ映画で使われたゴジラの着ぐるみを観察した、怪獣オタクのリアルなスケッチだったのではないか説。
圧倒的ディテールと物語性を帯びた空虚な着ぐるみ
意味は製作者ではなく見るものが与える、って図式は映画や芸術の批評の歴史そのものやね。庵野秀明もそんな一観客だったわけで、その末に俺なりのゴジラを作ったわけだから中身本質があるかどうかはこの際どうでもいいのかもね。面白ければオールOK
中身が無いからペラペラとは限らないって事だな。表皮が分厚ければしょうもないメッセージ性なんかなくても成立するのかもね。